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2007年12月

2007年12月21日 (金)

三度目のリジェクトと大掃除

 朝、メールが2件入っていました。ひとつは論文を投稿していた雑誌の編集長からで、もうひとつはその論文の共著者からでした。共著者からのタイトルに「残念でした、」と書かれていたので、リジェクトとわかりました。

 この論文は中央農研の時の仕事で、10月にデータを取り始め、翌年の3月の応動昆大会で発表する前に投稿しました。私としては早くに仕上げた論文でした。今回投稿した雑誌は最初にリジェクトされたところですが、短報にしたら考えてみるとの返答だったので、アメリカ昆虫学会を蹴られたあとに再チャレンジしたわけですが、だめでした。方法論中心の論文は案の定苦労します。

 昼休みに、「角田先生、今朝何かあったのですか。大声を出して。」と秘書の方から聞かれました。すみません。私は投稿論文の結果とか実験の結果にいつも一喜一憂します。つい、叫んでしまうのです。あー、とか、ガー、とか、うー、とか。

 午後は大掃除。実験室と居室を中心に掃除をして、半年の埃を落としました。来年は良い年にしましょう。

 

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2007年12月20日 (木)

石垣島予備調査

 月曜から水曜まで石垣島へ行っていました。来月、三年生を連れて実習をするための予備調査です。また、今後の調査でのフィールドとして南西諸島を考えているので、そのための準備でもありました。

 火曜日にJIRCASのN田さんに島を案内していただいたおかげで、ポイントとなる場所を決めることができました。ただし、一月は今回よりもさらに蚊の発生量が少ない可能性があるので、保険をかけなければなりません。卵以外にも幼虫と成虫のサンプリングも準備しておいた方がいいでしょう。石垣島は冬の間雨の日が多いそうなので、我々が調査する間少しは天気ももってくれるといいのですが。

 水曜日は時間的に余裕をみてトラップを回収したつもりですが、道をよく間違えたため、レンタカーを返却する時間ぎりぎりになってしまいました。帰りの飛行機が欠航になって、前の便に変更になったのにも焦りました。

 

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2007年12月15日 (土)

早く論文を書く

 昨年私が働いてた職場である、中央農研のYさんより、別刷りを送りましたと連絡がありました。論文には私の名前も入っていました。ありがとうございます。それにしても、彼は論文を書くのが早いです。

 就職浪人中、なんでこんなに落とされるのだろう、と真剣に自分と向き合ったことがありました。出した答えは、インパクトファクターの高い論文が少ないから。そういう状況になった理由は早く論文を書かなかったから。当時、すでに口頭発表を終えたのが4本ほどありましたし、解析や詰めの実験が終わっていないのが5,6本ありました。この頃も一応執筆はしていたのですが、結局一番書き上げるのに手のかかった論文は二度も落とされて、出版されるまでに足掛け三年かかりました。その間、公募には落とされ続けました。

 前にも触れましたが、最近ようやくいいペースで論文を書けるようになりつつあります。ひとつの論文を仕上げて投稿したら、返事が来る間(1~3ヶ月)に次の原稿をなるべく終えるようにしています。

 まず、どこから書くのか人さまざまなようですが、私の場合はどこに出すかできるだけ早く決めて、投稿先の書式にのっとって、(仮でもいいので)タイトルと所属、著者名などの表紙を書きます。次に、論文に入れる図表をドローソフト(Illustrater等)で完全に仕上げて、壁に貼っておきます。それを見ながら図表の説明を、次は結果を書き、結果と見比べながら材料及び方法を書きます。材料及び方法と結果は必ず整合性が取れるように注意します。こうすると必要以上に無駄なことは書きません。同様に、イントロとディスカッションをペアにして書きます。こちらも整合性には気を配るようにします。引用文献はその都度書式にのっとって書き入れます。最後に、要旨を書いて出来上がりです。

 論文を書くスタイルは人によっていろいろですが、私は今のところこのやり方に落ち着いています。投稿先を決める、表紙をまず書く、図表を書いて張っておく、というのはどれもモチベーションを上げるためです。正直、私はまだ論文を書くのが苦痛です。

 千葉大のO教授は外国の調査から帰ってすぐ論文を書くそうですが、同僚の先生から、どうやったら早く書けるんだと聞かれた時に、「絵日記の感じで書く。」とシャレっ気半分で答えていました。自分もこのようなセリフを一度言ってみたいものです。

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2007年12月12日 (水)

書評の謝礼とチャンポン

 2年前にある学術雑誌で書評の募集がありました。謝礼として学生には一万円、教官にはたしか三千円でしたでしょうか。当時、奥さんに食わせてもらっていたので、応募しました。本と謝礼の両方がもらえるなんて、願ってもないことです。ところが、私が担当する本は編集委員のある先生のところにまわっていました。メールで事情を説明してその先生に本を送っていただき、2ヶ月くらいかかって書き終えました。原稿は年内に編集長へメールで送りました。

 半年ほど過ぎてからその雑誌の編集長から催促のメールがあったので、年末にメールで送りましたとお返事したところ、その時期にネットのトラブルがあったので消してしまったようなので、もう一度送ってくださいと頼まれました。再び原稿を送りましたが、一年過ぎても何の音沙汰もなく、雑誌にも載りません。業を煮やして編集長に問い合わせたところ、預かったまま忘れていたらしく、ようやく3ヶ月ほど前に掲載されました。

 謝礼は奥さんと何かおいしいものを食べようと思っていたのですが、別れてしまってはどうにもなりません。どうしようか考えたところ、日ごろお世話になっている研究室の事務の人と実験助手の方にお昼をご馳走することにしました。

 「お前が一番世話になっているのはわしやろー。」と教授室から声が聞こえてきそうですが、Tsunoda and Takagiでまだ一報も論文を出していないので恐れ多くて昼飯など一緒に食えません。

 原爆資料館の隣の宝来軒(札幌北24条の宝来を思い出します)という中華料理屋で4人でチャンポンと皿うどんを食べました。結構ボリュームがあり、お腹いっぱいになりました。そのあと隣の喫茶店でコーヒーを飲みました。喫茶店なんて久しぶりです。お店はなかなか風情がありました。

 衛研にいた頃からいつか原稿料や謝礼をもらえるようになりたいと思っていました。今回の書評が世に出るまで紆余曲折がありましたが、最初の謝礼の使い道としては上出来でしょう。

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2007年12月10日 (月)

短報の受理

 1週間ほど前、再投稿した論文の結果について編集長より連絡がありました。そのときはおかしな文章が一箇所だけあるので、それを訂正して下さいと書かれていました。この雑誌は電子投稿なので、すぐにジャーナルのHPより修正した原稿と置き換えました。なかなか返事が来ないので、先程、念のため1週間前のメールを見直してみると、"Your manuscript has been accepted."と書いてありました。よかった!通っていました。

 今回の論文は相変わらずマダニですが、長崎に来てから書き上げました。あとレビュー中の論文が1報あります。まだ論文を書くスピードは遅いですが、印刷中1報、レビュー中1報、書いている最中1報、という自分の理想のペースに近づいています。

 誕生日の日に赤ワインを空けてしまったので、今日は帰る途中で酒を買い足して祝杯を挙げたいと思います(って特別の理由もなくいつも飲んでいますが)。

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2007年12月 9日 (日)

乗馬

 乗馬教室に行ってきました。諫早市の干拓の里でこれから1回30分の講習を合計5回受講します。先月、乗馬体験をしたときは15分でしたが、今日は1時間続けて2回分受講しました。常足、速足、駈足を先生に綱を引いてもらいながらおさらいし、じきに私だけで(先生はしきりに馬に声をかけてくれていましたが)乗りました。正直言いまして、最初は不安でしたが、すぐに慣れました。いやあ、楽しいです。ただ、左足が傾いていると先生から指摘されました。私の左足は以前神経を切っているので、疲れてくると自分でもなかなか思うようにいきません。次回は長靴を履いて、サポーターもつけた方がいいかもしれません。

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展覧会のはしご

 朝一番の飛行機で羽田に飛んで、まずは乃木坂に行きました。新国立美術館の「フェルメール展」を見てきました。予想通りの混雑でした。けれど、やっぱ、「牛乳を注ぐ女」はいい!気持ちが安らぎます。オランダの風俗画はおもしろい。酔っぱらいばっかしです。

 フェルメール展を見終わって、クリアファイルとポストカードを買って出ようとすると、今後の展覧会やら他の美術館のチラシがありました。なになに、今度はモディリアーニが来るのか。惹かれる....

 ふと、ムンク展のチラシを見ると、今、西美でやっているではないですか。当初はサントリー美術館に行くつもりでしたが、チラシに載っていた数枚のムンクの絵が気になって、急遽予定を変更しました。表参道から銀座線で上野に向かっていたのですが、上野の二駅先の田原町に森さん(北大の森先生ではありません)のお墓があるのを思い出して、まず、お墓参りに行きました。長崎に行く前に墓前に報告しようと思っていたのですが、ばたばたしていてできなかったので、今日ようやく報告できました。

 浅草で軽くお昼を食べてから、上野のムンク展に行きました。これまで「叫び」くらいしか彼の絵を知らなかったのですが、他の絵を実物で見ているうちにだんだん好きになってきました。特に色彩がとても好きになりました。構図も(当然ですが)巧みで、自分のプレゼンでも一度使ってみたいと思いました。私は普段図録を買わないのですが、今回は買ってしまいました。

 それから両国の大江戸東京博物館の北斎展へ。かなりの作品がありました。時間帯のせいもあるのか、ここは今日見た中でもっともすいていました。それで人の流れに沿ってじっくり見ていったため、全部見終わるまで2時間近くかかりました。

 羽田に向かう途中で、銀座の鳩居堂に寄って和紙を少し買いました。今年の6月にベトナムからTさんが日本に来たときになにやら和紙を買おうとしたのですが、長崎には彼女の望むのがなくて買えずに帰りました。具体的にどんな和紙かわからなかったのですが、私の独断でいかにも日本的な紙細工と折り紙を買いました。この前のホーチミンの調査でも彼女には本当にいろいろと世話になりました。フェルメール展ではホーチミンのLさんにクリアファイルを買ったので、一緒にベトナムに送るつもりです。

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2007年12月 8日 (土)

生物学の講義

 先週に引き続き、午後に文教地区で講義をしました。1、2年生対象の生物学で、2回にわたって進化について話しました。何人か眠そうな学生がいましたが、どうにか最後まで起きていたようです。

 授業が終わったあとで、二人の学生さんから、資料が英語なのと、グラフの説明がくどい、という指摘がありました。私も理学部の学生のときに日本語訳した用語で板書してくれないかな、と思いましたが、新しいことはすぐには日本語の本で紹介されないので、勘弁して、と答えておきました。それから、来年からグラフの説明はもう少し簡単にします。

 教育でネグレクトがまずいのと同じように、教える側も学生からの反応がないと伸びないから、少し突っ込みを入れてほしいです。試験をすればわかっているのかいないのかがはっきりするのでしょうけど、教えているときに反応が欲しいなあ。難しいのでもう一回説明してくださいでもいいから。

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2007年12月 7日 (金)

スーツ

 職場の軽装期間は5月から10月までです。私は、衣替えのつもりで11月からスーツで通勤していますが、いろんな人から、「どうしたんですか?」と尋ねられます。そのたびに、前の職場もスーツだったとか、恩師と呼ぶ人たちはみなスーツだったとか、他に服がない、などと答えています。

 長崎には、人生をゼロからやり直すつもりで来ました。それには、環境を変えるのがいい。けれども、環境を変えたからといって、すぐに人生がバラ色になるわけではありません。相変わらず悶々としながら、ある飲み会に出たときに、向かいの席に座った、ある先生から、「俺とあまり歳、変わらないんだから、もう少し、若い格好したらどうや。熱研なら、好きなようにしてええんやで。」と、言われたことがありました。そのときは、聞き流していたのですが、自分の好きな格好、という言葉が耳に残りました。

 私の職場は事務職の人を除いて、みなさんかなり自由な服装です。熱帯研究所(医学が抜けている)そのものといった雰囲気をもった、濃いキャラの人が多いです。私もそれなりにキャラは濃い方ですが、人と同じなのはいやです。熱研にスーツで通ってくる人は圧倒的に少数派なので、あまのじゃくな私はスーツを着ることにしました。これまで他人から似合っていると言われたのは、作業着とスーツだけだったせいもありますが。

 けれども、スーツも5月までが限界です。ここのところ毎日、27度の恒温室に入って実験をやっているのですが、暑くてかないません。恒温室に入る前に、いつもワイシャツを脱いでから作業を始めます。長崎の気温は梅雨の頃には25度を超えるので、それまでは好きな服を着て、自分なりにおしゃれを楽しむつもりです。

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2007年12月 5日 (水)

春口監督の辞任と昨春のきつい別れ

 ラグビー部の部員2名が大麻を栽培し、さらに他の十数名とラグビー部員用に借り上げているマンションで吸っていた事件の責任を取って、関東学院大学の春口監督が辞任されました。ラグビー部の最高責任者なので辞任は当然ですが、ご本人の健康も悪化されており、ひょっとするともう復帰はないかもしれません。関東学院ラグビー部解散という噂も流れていますし、最悪の場合、もう大学選手権で関東学院大学が見られなくなるかもしれません。

 二十年程前、平尾が同志社で大学選手権3連覇、新日鉄釜石が日本選手権7連覇を成し遂げ、ユーミンが「ノーサイド」をうたって、ラグビー界がおおいに盛り上がっていた頃、関東学院はまだ全国的に無名でした。それが大学日本一6回を成し遂げるまでになりました。春口監督の監督としての手腕はたいしたものですし、社会人になっても伸びる選手が関東学院には比較的多いことは学生を育てるのも上手だということでしょう。

 部員が百名以上もいたら変なのが一人二人いても仕方ないですが、大麻栽培は私の感覚では度を越えています。芸能人ならわからないでもないですが、今は学生の手の届くところにも麻薬がある、ということでしょいうか。変なところまでイージーな世の中になってしまいました。

 栽培していた学生も、吸った学生も、監督とかラグビー部とか好きではなかったのでしょうか。お馬鹿も悪さも若いときの特権や甘えとして多少は許されていいと思いますが、麻薬や強姦は犯罪だというくらいはわかってるでしょうが。一番可愛がってくれた人が一番傷つくんだ、っていうこと想像できなかったのでしょうか。

 自分が学生の頃、指導教官のSMZ先生や助手のN尾さんは怖くもありましたが、(変な意味でなく)人間的に好きでした。だから、私なりに学生生活を満喫しつつも、見捨てられるような行動や失礼な態度だけはとらないように気をつけていました。

 私は千葉大にいたとき、学生とも先生ともいえない中途半端な立場でした。千葉大を去る前に、ある学生に予定をすっぽかされたり、貸した本がそのまま本人の机に置かれたまま卒業していかれたことがありました。そのときは、失礼だなと思うと同時に、「俺は別に嫌われたってどうってことないと思われているのか。」と淋しさも感じました。私はその学生とは親しかったし、人間的に好きでしたが、卒業式のあとの最後の飲み会であえてきつい別れをしました。とても失礼なことをしたとわかって欲しかったし、二度と繰り返して欲しくなかったので。

 その学生のことは、正直、気になります。ときどき、元気にしているかなあ、と思い出します。

 

 

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2007年12月 4日 (火)

演劇

 大学4年のときに、生協の壁に「Cカンパニー」という劇団のポスターがたまたま目にとまりました。風間杜夫と平田満が出ていて、なぜか無性に見たくなりました。で、ポスターにあった番号に電話をしてチケットを買い、見に行ったのですが、そこで、演劇にハマってしまいました。

 札幌のような地方都市は都内と違ってなかなか見たい劇団が来てくれません。ある程度の場所と人数を確保するため演劇鑑賞サークルというのがあって、そこの会員になると毎月好き嫌いに関わらず演劇を安く、比較的いい席で見ることができます。実験生物センター助手のNさんと同じ研究室だったHさんを誘って人数をそろえて、よく見に行きました。当時の私は、青い鳥や夢の遊眠社を知らなかったのだが、見に行ってますますハマってしまいました。

 千葉に就職してからも最初のうちは大学時代の友人を誘って都内に演劇を見に行ったりしたのですが、人気のある劇団のチケットがなかなか手に入らなかったり、仕事や他の趣味が忙しくなってきたので次第に足が遠のいて、結婚してからは全く見に行かなくなりました。

 今日、なにげなしに新聞の折込に入っていた月の予定表を見ていたら、12月24日から27日、長崎市民劇場例会、無名塾「ドンキホーテ」とあるではないですか。ネットで検索して長崎市民劇場なる団体に問い合わせすると、入会金2200円、毎月2000円の会費で年間7本見られるそうです。ただし、最低3名必要とのこと。ここのところは札幌のときと同じです。

 うーん、誰かいないかな、と悩んだのですが、よく考えたら、今月は23日から下北でカモシカの調査でした。

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2007年12月 1日 (土)

森先生のこと

 昨日は日本ダニ学会誌が、今日は応動昆が届きました。どちらにもお知らせの欄に、齋藤裕さんの書いた森先生の思い出が載っています。裕さんも書いていたとおり、北大農学部応用動物研究室では教官を先生と呼ばず、さん付けしていました。私も森先生と呼ぶようになったのは就職してからです。研究は自分でするもの、教官に頼るようではだめ、自分で考えなさい、というのが指導方針でした。指導もしないが、強制もしないというのが森先生をはじめとする教官の方針でしたが、他の研究室の教官からはとやかく言われると、一度だけこぼされたことがありました。

 私は一度も森先生から褒められたことがありません。結婚式の祝辞でも褒めてもらえず、あとで、「御免ね。君は褒めるところがなくてね。」と言われたときはさすがに、「悪かったですね。」と言いたくなりました。

 ただ、私にはまったく表立って見せませんでしたが、情の厚さを感じることがありました。特に、卒業後、学会でお会いしたときなどに気にかけてもらっているのを感じました。

 弘前での応動昆の大会でのことでした。たまたま弘前城で森先生とお会いして、タクシーで会場に向かいときに、「Drはどうするの。」と聞かれました。当時はまだ衛研に入ったばかりで、研究テーマをマダニにするか、ヤマビルにするか、悩んでいました。「上の人たちはヤマビルをやって欲しいようなんですが、マダニもおもしろそうなので悩んでいます。」と答えた私に、森先生ははっきりと、「君、ヤマビルでは学位は無理ですよ。生活史がわかっていないんだから。」とおっしゃいました。この言葉のおかげで、私の悩みは吹っ切れて、マダニをDr論のテーマに選びました。マダニを材料にしたおかげで論文を早くから書けましたし、Drをとることもできました。あの一言には今でも感謝しています。  

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