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2010年8月

2010年8月29日 (日)

ブログの滞り

 8月にハノイに戻ったら、家でネットの接続ができなくなってしまったので、ブログの更新も滞りがちです。先週取ってきた蚊の世話があって日曜(の今日)もNIHEに来たので、ついでにブログを書いています。

 私は、何人か他の人のブログを読むのを楽しみにしているのですが、一月以上も更新が途絶えていたりすると、どうしたんだろうか、仕事がうまくいっていないんだろうか、と人ごとながら心配になります。私自身も前に比べてかなり更新の頻度が減っていますが、もうしばらくは細々と続けていきます。

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8月の調査と長崎からの学生

Rimg0006_3 今週もハノイ市内の定点調査をしました。写真は4日目のHa Dongでの最後に訪問した家の様子。このあたり一帯は織物が盛んで、写真のような古い機械のコトコトたてる音が通りを歩いていると聞こえてきます。

 今週はずっと雨でした。3日目まではなんとか天気ももってくれていたのですが、4日目には雨の中での調査でした。

 先週から長崎大学の学生が一人研修に来たので、初日と3日目には、一緒にフィールドに行って蚊をとる現場を見せました。知識欲の旺盛な学生で、蚊のことからベトナム人の暮らしまで毎回いろいろ質問されました。

Rimg0004_2 やっぱり雨水は貴重なのでしょうか。屋根から流れ落ちる雨水をたらいやバケツに貯めていました。

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2010年8月23日 (月)

帰省中のトラブルとその後

 先々週に夏季休暇で帰国していた間、-80度の冷凍庫が故障して、全部のサンプルを他の冷凍庫に移してもらっていました。故障した冷凍庫は復旧したようなので、今日、エントの人達に手伝ってもらってサンプルを戻しました。

 私の留守中にもう一つ困ったことがありました。それは、NIHEで維持している、培養細胞にマイコプラズマという微生物が広まってしまったのですが、それは私のサンプルが原因だと疑われたことです。あとでHさんがいろいろ調べてくれて、もとからマイコプラズマが感染していたことがわかったのですが、ウイルスの部屋で蚊を扱うことにNIHEのウイルスの人達が嫌悪感をもったらしく、その後ウイルスの実験室では蚊からウイルスを抽出できなくなりました。

 当初はエントの実験室でやればいいと私もHさんも考えていたのですが、エントでは来月から11月までオーストラリアとの共同研究でウイルス感染の実験をするそうで、その間は実験室を使えそうにありません。

 サンプルが山のようにあるので、Hさんからウイルスの人達に実験室をもう一度使わせてもらえるように頼んでもらっている最中です。

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執着心の不足

 自分の過去を振り返ると、執着心を支えにして生きてきた感じがします。北大に行きたくて、信大をやめて受験しなおしたり、動物生態学をやりたくて理学部から農学部の大学院を受験したり、博士号をとるのと研究職を続けたくて県職を辞めたり。それがためにいろんな人達との軋轢も生じましたし反省することも多々ありましたが、それだけパワーのある自分のことを自分では好きでもありました。

 今回のワールドカップの決勝トーナメント一回戦で敗れた岡ちゃんのコメントで、(敗因として)私自身の執着心が足りなかった、というのがありました。

 このセリフ、最近、実感するようになりました。以前だったら踏ん張るときでも、体力の低下を感じるせいか、無理しなくなりつつあります。二、三年前はもっともがいていたのですが、この頃は、こんちきしょー、とか思わなくなりました。鬱の兆候なのでしょうか。

 とりあえず鬱になるのは避けたいので、運動を続けて、生活を規則正しくするように心掛けます。

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2010年8月16日 (月)

葬儀の番組と親不幸な息子

 お盆休暇中にNHKで、お葬式をこれからどうするべきか、ということをテーマにした番組を母親と見ました。葬儀の値段が高すぎるし、葬儀屋からの必要のないようなサービスがあり過ぎることに皆、疑問を持っています。

 家族葬というのがあるそうです。できるだけ家族といる時間を長くして、無駄をなくすようにするのがそもそもの始まりみたいです。

 実際にそのようにして故人を送り出したビデオを見たのですが、私は、わがままな告別の仕方だなあ、と感じました。ビデオには、家族と親族以外の参列者はなしで、自宅からそのまま火葬場へとむかったわけですが、アパートの階段から必死こいて棺を下したときに、故人を始め家族の友人知人が駐車場で手を合わせているシーンがありました。故人との別れを身内だけで独占していたような感じを受けました。

 自分は無宗教だから葬儀は必要ない、という人がいますし、実際に亡くなった場合はあとでお別れの会をまわりの人達がやる場合があります。私の知人は研究者の人が多いせいかもしれませんが、そういう人はたぶん教員とか研究者の人に多い気がします。

 結婚式はある種のセレモニーですし、葬儀もそういう範疇にはいるものかもしれません。結婚式の場合は、俺たち二人でやっていくし、金もないから、別にいいじゃん、で済ませられます。それは生きているからいいんです。でも、たとえ年賀状をやり取りするだけの間柄になってたとしても、もう二度と会えなくなるとなったら、そして、いなくなったのすらわからなかったら、寂しいと思います。どこかで、けじめをつけたいです。そういうチャンスを与えてほしいですね。

 父親が葬儀関係の仕事をやっているせいも多少影響しているかもしれませんが、死んだらもう自分にはどうにもならないわけで、家族や知人にゆだねるしかないと思います。そして、たいていの人は家族と親戚以外にも、仕事であれ趣味であれ社会的に周りとのつながりがあり、いいことにせよ(あまり良くないですが)悪いことにせよ、(家族の知らないところで)その人たちに影響を及ぼしています。

 とりあえず、自分の父親と母親は、父親の会社の方々にお任せしたいです。私の親のことを嫌いな人もいるかもしれませんが、別れを言いたい人は私が知らない場所にもいるかもしれませんから。

 ベトナムに戻る前の日に、母親から、自分がいなくなったときのために、妹に私のことをしっかりと頼んでおくと言われました。甥と姪もいい子だからと。

 もう46になったのに、親に心配をかけています。

 

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2010年8月14日 (土)

伯母の初盆と親のこと

 父親の見舞いに行ってきました。顔色は思ったより良かったのですが、それでも一気に年をとった感じでした。母親からは、お盆のことなど気にせずにじっくり療養するように、そしてあまり出歩かないようにと、言付かってきたのですが、とりあえず一時退院できることが決まりました。

 翌日、お使いも兼ねて、父親を迎えに行きました。家に戻るとすぐに、いとこと父親と母方の叔父と私の兄、妹とでお墓に行き、お盆さまを迎えに行きました。風が強かったのと、かなり昔のろうそくを持ってきたので、なかなかろうそくに火がつかずに難儀しました。いちおうお墓でつけたろうそくを家の仏壇に持ち帰り、なんとかお盆さまを迎えることができました。昔は2kmほど離れたお墓まで歩いて行って108本のろうそくを立てながら戻ったものですが、今は車で行って、お墓の近くと家に近くにろうそくを立てるだけになり、風情がなくなりました。

 二日目の今日は、朝から入れ替わり立ち替わり近所の人達がお線香をあげに来ました。田舎でご近所づきあいが濃密なのと、高齢化のために、実家のある地区だけでもは3軒の家が初盆で、何軒も掛け持ちでまわっている方もいました。

 父はまだ完治したわけではないですし、母も具合が悪いので来週早々検査入院しなければなりません。私の親や親戚の叔父叔母も高齢です。もう会える時間が限られてきたので、暇をみては日本に帰るようにしたいと思います。以前は、ほとんど親の心配などしなかったのですが、入退院が現実になってきたので、考えざるを得ないです。

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2時間遅れの帰国便

 翌日帰る、親戚の子にアパートの鍵を預けて、夏休みを実家で過ごすため空港に向かいました。

 ノイバイ空港のラウンジでビールを飲みながら日本の新聞を読んでいると、私の前で行ったり来たりしてから、腰をかがめて下から覗きこむように見る人がいました。サッカー仲間のYさんでした。一言二言、話した後、そのまま新聞を読み続けて、出発の時間が近づいたので、一緒にゲートに降りていったのですが、そこで30分遅れるという放送が入りました。しょうがないのでまたラウンジに戻って、Yさんとワインを飲んで時間をつぶしてから降りて行くと、また、遅れるという知らせがありました。また二階に戻ってワインを飲んでというのをまた繰り返して、結局2時間遅れで飛行機に乗りました。

 12時発のフライトが2時発になりました。酒が軽いとぐっすり眠れるのですが、少々飲みすぎたのでほとんど眠れずに成田に着きました。京成上野までYさんと移動して、そこから私は先輩のMさんの墓参りにいくために田原町へ行きました。今回は美術館、博物館に寄らず、田原町に行っただけで、群馬に帰りました。

 家に帰ったら、父が入院していることを母親から知らされました。夜中に腹痛がひどいので救急病院に連れて行ったところ、そのまま入院したそうです。今年は1月に亡くなった伯母の初盆なので、父親がいろいろととり仕切らねばならないのですが、それどころではありません。

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2010年8月 9日 (月)

日本からの来客

 土曜日から親戚の子がハノイに遊びに来ています。今年死んだ伯母の孫です。バイクで1時間近くかけて迎えに行きました。行きはタンロン橋を普通に渡っていったのですが、帰りに橋のたもとで呼びとめられて、バイクと自転車が走る道を行かされました。とりあえず他のバイクの流れに合わせて走っていったのですが、橋を渡ってからどこで曲がっていいのか分からずにカウザイ区の方まで行ってしまいました。

 どうにかアパートにたどり着けたので、少し休んだ後、夕食を食べに出かけました。「アシマ」でキノコ鍋をたっぷり食べて、それからビンコムタワーで少し買い物をしました。

 日曜日はサッカーを休んで、ホーチミン廟へ行きました。朝7時半だというのにすでにかなりの人で賑わっていました。レーニンの死体を保存した人達がベトナムに来て処理したらしいのですが、蝋人形みたいでした。びっくりしたのは、ベトナム人がきちんと行列を作り、携帯をかけず、私語もほとんどなかったことでした。やればできるんじゃん。

 ホーチミン廟の後は、ホーチミンが執務をしていた家やホーチミン博物館を見学しました。どれもどうってことなかったのですが、博物館の売店の缶コーラが一個2万ドンだったので、ぼったくられた気分になりました。

 まだ昼まで時間があったのでついでに近くにあった軍事博物館を見学しました。南ベトナム大統領府に突入した戦車や撃墜したアメリカ軍戦闘機のかけらとかがありました。あとは、旗の塔という展望台のような建物があって、そこに登ったのですが、階段が急で、かなり腿が痛くなりました。

 ハノイ大教会を見たいというので、バイクで旧市街に移動して、「リトルハノイ」でお茶をしました。これだけ観光しても、まだ11時だったので、米ドルをベトナムドンに換金してから、アパートの近くまで戻って、ブンチャーを食べました。

 昼食後はアパートの隣のマッサージ屋で1時間ほど筋肉をほぐしてもらったのですが、疲れが取れないのであとは夕方まで私はだらだらと本を読んでいました。親戚の子は一人でまた市内観光に行きました。

 

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負けるが勝ち

 実験室で飲食しない。

 研究者として常識的なことなのですが、先日ある日本人ポスドクに注意したところ、なぜ、そうしなければならないのか説明せよ、と言われました。薬品や有害物を机に置いたり、ウイルスに感染させた蚊を飼ったりしているのだから、と話したところ、今は物置状態になっているし、(手で四角を描きながら、)ここは自分のスペースだと言えばいいじゃないか、と詭弁ともいえる反論をされ、言葉に詰まりました。

 極めつけは、人を説得させるには論理が必要だ。あなたからはこの三年間論理的な回答が全く返ってこない。

 あまりにも理不尽な言動に言葉を失くしてしまいます。こういう人に対しては、負けるが勝ち、と自分をなだめることにしています。

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2010年8月 2日 (月)

試合後の昼食場所の変更

 今日は試合が比較的遅い時間だったので、朝はゆっくり寝れました。試合は9時半開始で暑いのは暑かったのですが、それでも先月に比べて少ししのぎやすくなったような気がしました。日曜の朝ゆっくりすると、その分試合で暑さに耐えなければなりませんが、そろそろ大丈夫な陽気になりつつあります。

 肝心な試合には、またサイドバックで出たのですが、後半に相手のクロスをキーパーに任せてしまって、その隙に詰められていて1点を入れられてしまいました。前回のオウンゴールがあったので、消極的になっていました。結果は1対1の引き分けでした。

 試合後はいつもの店ではなくて、Vタワーの日本食屋で昼食をとりました。値段もそこそこでうまかったので、来週からはここで食事をとることになりました。自分も試合の後のこれまでの昼食はメニューがマンネリ化していて飽きていたのでよかったです。

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ハノイ市内での蚊の調査(続き)

 今行っているハノイの蚊の調査は、デング熱患者の多い地域を8か所選んで、それらの地域から毎月15軒の家を選んで蚊を採集することにしています。前半は中心部の下町、後半は郊外の新興住宅地で調査をしました。

Thanh_tri_2 Thanh Tri保健所前の通り。道路はまだ舗装されていません。どの家も新しく、左手前の家は目下建設中です。

Ha_dong 4日目に調査をしたHa Dongの風景。水は茶色く濁っていますが、川辺には水草が生えていて、いくらか自然も残されています。しかし、道端に置かれた土管と石の山がここも開発の波にさらされていることを物語っています。日本のように河畔に、バイク乗り入れ禁止(あえて書きました)の散策コースとか作ってほしいものです。

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