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2016年10月

2016年10月30日 (日)

ドロドロのチャンピオンダッシュと合気道の昇級試験

 タッチラグビー仲間に誘われてチャンピオンダッシュというのに参加してきました。匍匐前進をしたり、泥の壁、木でできた壁を上り下りしたり、雲梯やローブを伝わって池を越えたり、タイヤやコンクリートブロックを引っ張ったりと、6.4kmのコースの中にある20の障害を乗り越えていくという競技でした。ちゃんと内容を知っていたらいくんじゃなかったー、と、途中で後悔したりもしました。

 テレビのサスケは透明な水ですが、 ベトナムは全部落ちたら泥水です。競技をやっている間は傷が化膿しないかなんて考えている時間はありませんでしたが、終わってみたらスリ傷だらけでした。最後のロープ登りはもう腕の力が残っていなくて、ダメでした。それにしても疲れました。
 終わった後にビールを飲んだら、世界が真黄色に見えました。皆で食事をして、家に戻ってから泥だらけの靴とシャツを洗って、シャワーを浴びて、ひたすら寝ました。
 夕方、4時くらいに起きて、合気道へ。いつもは日曜日に昇級試験があるのですが、道場の関係で今回は土曜日になりました。試験前の稽古でTさんに苦手な技を少し試してみて、本番に臨みました。割と力が抜けていて、よかったかもしれません。審査をしていたTさんが試験後に、よかったですよ、と声をかけてくれたので、大丈夫そうです。

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2016年10月28日 (金)

進捗状況を報告するスライド

 研究費の援助をもらえることになったのはいいことなのですが、人の血液をサンプルとして使用する場合、今は大学や試験研究機関内にある倫理委員会という組織に書類を提出して調査や研究の内容に問題がないか審査してもらう必要があります。それの準備が結構大変です。

 それに加えて、海外拠点元締めのAMEDにこれまでの進捗状況と今後の計画を説明するスライドを準備しなければならないので、昨日今日とその対応に追われました。10ポイントの字でびっしり研究の進捗と今後の課題が1枚に凝縮されたスライドが見本として送られてきて、これを参考にするようにと上から指示されて、こんな細かい字のスライドを本当に読むのか、と思いつつ、私としてはこれまでで最小の14ポイントの字面のスライドを2枚作って事務局へ送りました。
 早く独立したい。

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2016年10月27日 (木)

研究資金の提供

 今行っているデング熱媒介蚊の防除プロジェクトで某企業から試験地区の住民の血清検査を行うための研究資金をいただくことが決まりました。ありがたいことです。ベトナム側も非常に喜んでいます。
 でも、それはそれで大変です。住民のそれこそ血をいただいて研究を行うので、倫理的に問題はないか、熱研の委員会で審査してもらう必要があります。なおざりではいけないので、それなりにきちんとした書類を準備しなければなりません。やっぱり結構大変です。
 それにしても昔に比べたら企業からお金を援助してもらって研究をするというのはずいぶんやりやすくなりました。私が修士の時にある企業の人と一緒にダニの低温耐性の研究を行ったのですが、その頃お昼を食べに連れて行ってもらった時に教授がしみじみと、十年前だったらこんなことはできなかった、と語っていたのを思い出します。そういえばこの前の朝ドラの「とと姉ちゃん」で、企業の広告を載せると絶対公正な商品検査ができなくなるという理由で編集長と社長の間に亀裂が生じました。
 確かに私は某企業の商品の宣伝に一役買うような仕事をするわけですが、倫理的にどうか、と問われると、今ある蚊の防除製品の中で一番いいものだと判断して防除試験に使用することにしたとしかいいようがありません。ジカ熱に伴う小頭症の原因になっているのではないかという憶測も流れ、そのせいでプロジェクトも一時中断されたわけですが、それも後で公式に否定されました。今の時点でwin-winの状況ですし、それでいいと思うようにしています。

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2016年10月22日 (土)

寝過ごした同僚と突然死した友人

 いろいろな人の訃報に驚くことはありますが、昨日知った平尾誠二が亡くなったのにはびっくりしました。昨年から闘病生活を送っていたようです。53歳ですから私と同じ年ですが、彼は早生まれなので学年は一つ上です。
 昨日、ベトナムは女性の日でした。男性が同じ職場の女性を食事に招待するのが一般的です。フレラボからは時々声をかけられずにそのまま皆で行ってしまうことが多いのですが、この日は女性陣の分を男性陣が割り勘にするのでそういう時には私のことを思い出すようです。
 ところが、同僚のT君がお昼になっても来ないので、心配だから様子を見に行ってみてくれ、というので、一旦家にバイクを取りに行って通訳として秘書のTさんと一緒にT君のアパートに行ってみました。
 Tさんから管理のおじさん、さらに事務のお姉さんに事情を説明して、T君の部屋に行ってみました。ノックをしても返事はなく、カギを開けようとしたらカギはかかっていません。
 「チュノダ、(見てきて)」とTさんが言うので、寝室に入って行くと、彼は下着で寝ていました。声をかけるとむくりと起き上がったので、死んでいないことだけは確認できました。
 彼が出かける用意をするまで5分ほど待ってから、私と秘書のTさんはバイクで、彼はタクシーで皆が待つレストランに行きました。最近ハノイ市内で増えてきた韓国系焼肉屋で2時間以上もべちゃくちゃ、だらだらと肉と鍋を食べてからNIHEに戻りました。
 人間、いつ何があってもおかしくありません。私の信州大時代の友達は20代後半の時に会社の独身寮で寝ているときに息を引き取って、2日後に上司が不審に思って寮母さんか誰かに確認させたところで発見されたそうです。後日、彼の父親から息子が死んだので(時間がたってしまったが)息子の話など聞かせてほしいと留守電が入っていたので、もう一人の信大の時の友達とお線香をあげに行ったのでした。その時に、彼の父親が、死んだのは仕方がないとしても、2日間も放っておいた当時の彼の上司は上司としてひどい、という内容のことを話していたのを今でも憶えています。
 寝過ごした、なんていうのは、笑い話にこそなれ、どうってことないですね。
 

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2016年10月18日 (火)

ベトナム人の家族第一主義

 ハノイも次第に秋めいてきました。
 土日は蚊の実験の経過観察のため午前中はNIHEに来ました。この実験はアシスタントのDさん中心で進めて、彼女が論文を書くことになっています。本来なら彼女が来てしっかりデータを取ってほしかったのですが、土曜日の朝だけ来て帰り際に、これから実家に行くと言い捨てて帰ってしまいました。金曜日に言い聞かせたつもりだったのですが。
 先々週のもう一人のアシスタントの時もそうですが、ベトナム人の家族第一主義には日本人の私にとって面食らうことがあります。
 

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2016年10月13日 (木)

過去の番組も聴けるようになったラジコ

 ラジコで日本のラジオ番組をパソコンで聴けるようになった上に、1週間前までの番組を聴けるようになったので、先週慰安旅行で聴けなかった、「あ、安部礼司」を今聴いています。本当に便利な時代になりました。

 私の仕事に必要な学術論文も過去に遡って電子書籍化されてきています。有名、お金持ち大学でないとそれらを入手できなくなりつつあって困っている部分もありますが、とりあえず個人でもお金を出せば家にいながら入手できるようになりました。多分、映画とテレビもこれまでの映像は全部電子化されて、レンタルビデオ代くらいのお金を支払えばいつでもどこでもパソコンさえあれば見れるようになるのかもしれません。
 

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モックチョウへの慰安旅行

Imgp3205 ベトナム北西部のソンラー省のモックチョウにNIHEの慰安旅行に行ってきました。いろいろ揉めた後での、総勢270名での慰安旅行でした。すごいですよね。大型バス2台、マイクロバス2台、公用車数台、私用車数台で土曜日の朝6時15分集合で、30分に出発。道中、何度もマイクロバスの天井に頭をぶつけながら11時30分にホテルに到着Imgp3190。なんで、こんな何もない場所にゴージャスなホテルがあるんだ、と眠気もぶっ飛ぶような五つ星ホテルでした。

 慰安旅行の一番の目的は夜の宴会でした。各部署で出し物をして、その出来栄えを競うような展開となっていました。ちゃんとステージの前に審査員席もあったりして、高校の時の文化祭を思い出しました。写真はエントの催し物で歌っている私のアシスタントのDさん。いざ、本番となったらスイッチが入っていたといいますか、憑依していました。
 私はいいホテルだったので、当日の午後はジムで汗を流して、その後部屋でまったりして、宴会に出て、終演1時間前に部屋に戻ってぐっすり寝ました。年寄りくさいかもしれませんが、1流ホテルに泊まってそれを堪能しないで寝て帰るのは勿体無いと思うようになりました。

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2016年10月 8日 (土)

昭和の映画とテレビ

 先日、たまたまお昼を食べていた日本食屋で山田洋二監督、高倉健主演の「遥かなる山の呼び声」をBSで見られることがわかり、家のテレビで見ました。昔、見たかったのですが見ていなかった映画だったので、内容にちょっと無理な設定もありましたが、見れてよかったです。それにしてもベトナムにいても日本のBSが1週間前まで遡って見られるのですから、便利な時代になったものです。
 昭和の映画を見て、しみじみ群馬にいた時代のテレビと映画の状況を思い出しました。私が保育園(当時は幼稚園ではなかった)か小学校低学年の時に、兄と従兄の賢ちゃんに連れられて、渋川市のみゆき座という映画館へ初めて映画を見に行きました。3本立てで、ドリフとゴジラ、もう1本は忘れましたが、とにかく満員で客席の中には入れず、ドリフの後半を見てからゴジラの前半を見て、兄たちが帰ろう、というので見たかったゴジラを最後まで見れずに祖母の家に帰った記憶があります。
 私が小学校高学年になり、中学生になるにつれて、前の道を母親の運転する車で通り過ぎていくときに映画館を見ると急激に映画館からお客さんはいなくなり、みゆき座はいつのまにか日活ロマンポルノを専門に上映する映画館になりました。高1の時に、よし、今日行くぞ、と気合を入れて同級生と一緒に入った後にそれもじきに取り壊され、駐車場になってしまいました。
 映画館が廃れたのと引き換えに、テレビで映画を上映するようになりました。とはいうものの当時のテレビでの映画は洋画を主とした何年か前の映画と名画が中心でした。テレ朝では淀川長春さんが日曜ロードショーを解説していて、日テレの水曜ロードショーは水野治夫、フジテレの金曜ロードショーは高島忠夫、月曜日はTBSで名前を忘れましたが教養のありそうなおじさんが解説をしていました。なんといっても淀川長春が映画解説の先駆者で、それこそ物まねにされるような、「それでは皆さん、さよなら、さよなら。」、というフレーズをいつもしていました。それで水野治夫も負けじと、「いやー、映画って本当にいいもんですね。」というキャッチフレーズを考えたと雑誌に書いていたのを読んだことがあります。フレーズとは別に、マラソン中継の増田明美並みに淀川長春も水野治夫も映画に関するうんちくを話してくれるので、それも楽しみの一つでした。
 なぜ、こんなことを書いたかというと、古舘伊知郎が新日プロレスの実況放送を始めた時にどうしても徳光和夫の全日プロレスの解説を意識したというのをこの間テレビで知ったからです。徳光が、「プロレスファンの皆さん、こんにちは。」と話してから実況を始めていたので、自分は、「さあー、この札幌定山渓にはヒグマが出るぞ、今宵の新日プロレスのリングには。。。」てな調子で実況することにしたと聞いたからでした。
 話が横道にそれましたが、映画に関しては、私は小学5年生の時に兄が見ていた、ジャックロンドン原作の「荒野の叫び」を一緒に見て、初めて映画に感動しました。30歳くらいまで映画はよく見ていたように思うのですが、結婚、離職と段階的に映画を見なくなった気がします。
 いやー、映画ってホントにいいものですね。
                                          

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2016年10月 5日 (水)

先週の失言のその後

 自分の失言で部下や学生が傷ついたのであれば、悪かったと、頭を下げます。先週は、実は心の中で積もっていた不満がつい口をついて出てしまいました。その後で本人には謝ったのですが、結局、元室長のYさんが間に入ってとりなしてもらいました。

 ベトナム社会は口コミの社会です。すでに部長のP君や今の相方のD君の耳にも届いていたので、今週、それぞれ二人に事情を説明しました。以前より部下から苦情を受けていたD君からは、いっそのこと辞めてもらって別のアシスタントを探したら、と言われました。辞めてもらうにしてもこんな辞め方はよくないと思ったので、引き止めたわけですが。
 P君はYさんから連絡を受けた直後に旦那のS君を電話で叱責したそうです。奥さんにきついことを言ったせいか、それともP君に怒られたせいか、このところS君と私との関係もギクシャクするようになった感じがします。
 こうなる可能性があったので本当にエントスタッフの身内を雇いたくはなかったのですが、経済的に援助してやれ、という見えない圧力があったので致し方ありません。ですが、正直なところ新年度からは更新したくないです。

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